地下鉄長田駅へ移動〜併せて平家ネタであります。
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駅前の「監物太郎頼賢(けんもつたろうよりかた)の碑」へ〜
監物太郎頼賢は中納言平知盛の家臣で弓の名手だそうで

毎年、5月7日に法要が行われるそうです。

説明板のテキストがあったのでページ最後にアップ

まぁ、私。その、関心ごとのベクトルがちょっと違ってまして・・・
奉納者名に「川崎造舩所」とありで土地柄ですね〜

裏には「丈田組中」と・・・
毎年、5月7日に法要が行われるそうです。
説明板のテキストがあったのでページ最後にアップ
まぁ、私。その、関心ごとのベクトルがちょっと違ってまして・・・
奉納者名に「川崎造舩所」とありで土地柄ですね〜
裏には「丈田組中」と・・・
寿永3年2月7日 源平須磨之役頼賢奮闘記
寿永の昔、生田の森の大将軍 新中納言知盛は部下の者総べて落ち失せ、息子 武蔵守 知章、監物太郎頼賢と主従3騎、汀の方へ落ち行けり、と団扇の旗を立て、児玉党と思はるる者が10騎計り鞭を挙げ鐙を合せて追いかけ来たり、之を見し監物太郎頼賢は、得意の弓にて真先に進みし旗差の脛骨を射て落せり、党の大将と思はるる1騎の武者は知盛に組付かんと駈寄れり、息 知章は父を討すまじと中へだてむずと組付き取って押へ首を取り立上らんとする処を敵兵打重なりて遂に知章の首を揚げた。
監物太郎はその中の一兵の首を取った。
監物太郎は指詰め矢種のある程を射尽し太刀を抜いて戦ったが、左の膝口を敵に射られ立ち上がらず討死せり。
其のまに紛れ新中納言知盛は井上黒の愛馬にて海上二十丁計り遊ぎ船に乗り移り助かり給へり(新訳平家物語抜萃)
■監物太郎頼賢之碑
監物太郎頼賢は中納言平知盛の家臣でした。
平家物語によると寿永三年(1184)2月7日、源平一ノ谷の合戦で活躍した監物太郎は、主人の平知盛とその嫡男平知章の三人で海のほうへ落ちのびようとしていました。
その途中、源氏方の児玉党との戦いになり、主人知盛を助けようとした監物太郎は知章とともに討死にすることになりました。
そのことによって知盛はおちのびることができたのです。
『摂津名所図会』によると、江戸時代の享保年間に、並河誠所が諸国行脚の途中、討ち死にの地(長田区明泉寺)に立ち寄り、監物太郎の忠義を称え顕彰するため、西国街道近くの現在の地に石碑を移したということです。
現在、保存会により、毎年五月七日の命日に祭礼が執り行われています。
また願い事がかなうとされている為、現在でもお参りに訪れる人が絶えることがありません。
なお、平知章の碑も同じ頃にこの付近に移され、源平勇士の碑として五番町八丁目に祭られています。
監物太郎保存会
神戸市認定地域史跡
平成17年3月15日認定
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