2025年12月28日日曜日

【検証ポタ】力石編4:神戸編〜湾岸界隈/力石8:稲荷神社

何年か前にきた稲荷神社です。
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力石をじっくりとみようと再参


別名チヂミ神社?なんでそう呼ばれるのか不明???


この方、前にどこかで・・・


神戸ってビリケンさん多いですよね〜


なかなか趣のある境内ですが、目の前、高速の高架が迫ってるんですよね。


ちなみに裏から見ると・・・意外な様相です。


奉納者ずらっと・・・


規模の割に無茶苦茶多いような・・・


この石灯篭・・・


高田屋嘉兵衛さんのお名前が、確かにありますね。


年号も


さて。。。力石は・・・百度石の・・・


前にあります。


お餅型と言いますか、最中型といいますか・・・


西と一文字の立派な力石です。西出町の「西」なんでしょかね?


狛狐〜


狛犬は出ていけないように網の中?


社殿前には・・・狛犬がいますが狛狐はいません。


神戸のお稲荷さんに何故か線香たてがよくあります。


奉納者の最後に石工の名前ありで・・・


拡大してみたら〜石原って名前の石工でーおっ!讃岐小豆島の方が奉納してるのね!


がおおおぉ〜顔の狛犬


相棒は、ぐるるるるぅ〜顔の狛犬


社殿内にビリケンさん・・・神殿前には白狐がいますね。


お稲荷さんのお隣・・・平家ネタであります。


平経俊の塚、平敦盛の兄、18歳でこの地で戦死


平家の関わる塚、いったいどれくらい神戸界隈にあるんやろね。


2025年12月27日土曜日

【検証ポタ】力石編4:神戸編〜湾岸界隈/力石6:御崎八幡神社/力石7:七宮神社/

 地下鉄和田岬下車で御崎八幡神社へ
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なんども来た神社なんですが・・・力石?あったかな???

境内をウロウロ、力石を探します???


社殿の裏側も


ないなぁ・・・処分されたんやろか?


ん???・・・←力石!?


お稲荷さんの脇奥に・・・なんかあるわ!


あらーこんな場所に!しっかりと鎮座!!


立派なお餅型といいましょうか・・・力石です!


説明板もあります。


続いて・・・歩いて既参の七宮神社へ


ここの力石が難儀な場所に・・・掲示板のすぐ後ろで・・・


立派な力石なんですが、うまく撮れないんですよね。


で・・・今回、とりあえず全体を入れて撮ってから


Photoshopで画像を自由変形加工〜ほーこんな意匠やったのね!!


2025年12月26日金曜日

【検証ポタ】力石編4:神戸編〜長田界隈/力石4:監物太郎頼賢の碑/力石5:長田神社

地下鉄長田駅へ移動〜併せて平家ネタであります。
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駅前の「監物太郎頼賢(けんもつたろうよりかた)の碑」へ〜
監物太郎頼賢は中納言平知盛の家臣で弓の名手だそうで


毎年、5月7日に法要が行われるそうです。


説明板のテキストがあったのでページ最後にアップ


まぁ、私。その、関心ごとのベクトルがちょっと違ってまして・・・
奉納者名に「川崎造舩所」とありで土地柄ですね〜


裏には「丈田組中」と・・・


石灯篭には・・・へぇ〜高知県野方やん!!
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紙商 土佐國伊野町 野村寅次本店
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伊野町は土佐和紙の産地で博物館もありますね〜


奉納者の氏名を撮ってると


キネマ倶楽部とあり、これのことかな?
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淀川長治さんも通った神戸の映画館の中に「キネマ倶楽部」の名があります。
戦前の新開地にあった映画館ですね。


肝心の力石は・・・の前にお参りを〜


監物太郎頼賢の碑


お堂横にある、てらてらに光る、この石は?


奉納者名確認!
川崎造舩機械部 富田組中 とあります。


線香立てには・・・灰藤組中とあります。


明治三十九年


東出三(町名) 世話人 和田
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今の川崎重工業神戸工場すぐの場所ですね。


さて・・・力石は・・・


ん・・・?


ありました!


なんでここに置かれるようになったんやろか?


裏に何か彫られているみたいですが・・・


既参の長田神社の力石も撮っておこうと・・・


立ち寄ったら秋祭りで・・・神輿の巡行間際でした。


長田神社の法被真っ赤!で鶴がいます!


さて地下鉄に乗って湾岸部へ移動・・・で、この広告見てドキっ!!
そうか女子ばっかでなく男子校もなくなる時代なのね〜



寿永3年2月7日 源平須磨之役頼賢奮闘記

寿永の昔、生田の森の大将軍 新中納言知盛は部下の者総べて落ち失せ、息子 武蔵守 知章、監物太郎頼賢と主従3騎、汀の方へ落ち行けり、と団扇の旗を立て、児玉党と思はるる者が10騎計り鞭を挙げ鐙を合せて追いかけ来たり、之を見し監物太郎頼賢は、得意の弓にて真先に進みし旗差の脛骨を射て落せり、党の大将と思はるる1騎の武者は知盛に組付かんと駈寄れり、息 知章は父を討すまじと中へだてむずと組付き取って押へ首を取り立上らんとする処を敵兵打重なりて遂に知章の首を揚げた。

監物太郎はその中の一兵の首を取った。

監物太郎は指詰め矢種のある程を射尽し太刀を抜いて戦ったが、左の膝口を敵に射られ立ち上がらず討死せり。

其のまに紛れ新中納言知盛は井上黒の愛馬にて海上二十丁計り遊ぎ船に乗り移り助かり給へり(新訳平家物語抜萃)

■監物太郎頼賢之碑

監物太郎頼賢は中納言平知盛の家臣でした。
平家物語によると寿永三年(1184)2月7日、源平一ノ谷の合戦で活躍した監物太郎は、主人の平知盛とその嫡男平知章の三人で海のほうへ落ちのびようとしていました。

その途中、源氏方の児玉党との戦いになり、主人知盛を助けようとした監物太郎は知章とともに討死にすることになりました。

そのことによって知盛はおちのびることができたのです。

『摂津名所図会』によると、江戸時代の享保年間に、並河誠所が諸国行脚の途中、討ち死にの地(長田区明泉寺)に立ち寄り、監物太郎の忠義を称え顕彰するため、西国街道近くの現在の地に石碑を移したということです。

現在、保存会により、毎年五月七日の命日に祭礼が執り行われています。
また願い事がかなうとされている為、現在でもお参りに訪れる人が絶えることがありません。

なお、平知章の碑も同じ頃にこの付近に移され、源平勇士の碑として五番町八丁目に祭られています。

監物太郎保存会
神戸市認定地域史跡
平成17年3月15日認定