2023年1月13日金曜日

【ご近所】法華閣(仁川うぐいす台)

作家遠藤周作氏のエッセイ「仁川の村のこと」に
「聖心の鐘と東洋の鐘が共鳴し合う場面に感銘を受けた」という記述があり・・・
と、私の旧ブログに投稿した方がありました。
この東洋の鐘があったのが法華閣というお寺だそうで・・・
このお寺の現状をアップしようと思いつつ月日は流れ・・・すんまそん(^^;;;
2000年6月18日撮っていた写真をまとめてアップします。
***
私が、こちらに引っ越した1994年頃には、既に廃寺でした。
地図に登場するのは1970年代、戦前の地図にはありませんね???



現在、仁川小学校西側に2箇所、当時の道標が残っています。
これは、小学校前の信号近く

こちらは団地前

現在のGoogleマップに載っている法華閣には
檀家さんの墓地があり、この石造物が転がってます。

さて、今から20余年前ですが・・・
現在、神戸水道の敷地表記になっている付近が入口でした。
ピンが甘いですが、先ほどの石造物の石柱が立ってました。

横構図も上げておきます。

入口近くやったかな・・・何かの跡地です。
ここにも先ほどの石柱が立ってます。


境内は荒れ放題で、自然に戻りつつありましたが


こんな石段が残っていたり・・・


朽ちかけて小屋も・・・

社務所でもなく・・・待合室的な?


別角度から・・・

くわえたばこ厳禁、吸殻は必ず吸殻入れへ・・・とあるので休憩所?
番地は、仁川うぐいす台4-1、今は住宅地の番地ですね。

愛敬の看板


さらに奥へ・・・開けた場所に出ますと・・・建物?


おや・・・鐘楼?!


唯一残る建物です。
鐘を吊るす頑強な造りなんでしょうね。
遠藤周作氏が聞いたのは、この鐘の音でしょうね。
よく見ると左にある撞木の綱が新しいので
当時でも誰かがついていたんでしょうかね

あと見渡すと・・・ん?



ブランコ?


手洗い盆も・・・享和(1801年)〜の年号が入ってますね。


これは・・・韓国の像かな?


最深部には、今も現地にある墓地でした。
右側に下に降りる小道があり、水が沸いてました。


とにかく境内周辺は自然に戻るがままで・・・

奥見える鉄塔は、今も健在ですが・・・

6 件のコメント:

  1. 感謝感激であります!
    こんなによく写った写真を見れるとは想像していませんでした!
    遠藤氏は(今でも人気で)偉大な作家ですが、
    ご自身がその半生を綴ったエッセーで影響を受けた。。という
    今はなきその雄姿(鐘)を見させてもらえたわけですからね!

    (抜粋させて頂きますとこんな感じに記されています。。)
    少年の頃、ぼくはこの径の一角にある法華閣という寺が大好きだった。
    (略)あの仁川の村と自分を割くことはできない。
    そこに育った少年が文学をやることを考えたのもこの村であり、
    (略)ぼくの『黄色い人』という作品はこの仁川の思い出の上に
    なりたったものである。

    あと、構造物の年号の写真もあってスゴイ!と思いました。
    聖心よりもずっと前にあったのかな・・
    (たしかに今昔マップに出てくるのは70年代ですね)
    先日廃寺となった現地を訪ねましたが、
    小仁川を挟んでほぼ同じ高さに聖心があって
    夕刻の祈りの時間、(新参者の?)西洋の鐘に応えていたのは
    なんとなく想像できます。。(笑)

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  2. kbtさん、お役に立てて光栄であります。
    このお寺の情報、全くネットになく、たまたまたどり着いた方々の
    記憶の中だけに今のところ存在するようです。
    今回、20年前の画像をあげることによって、違った情報を
    寄せてくれる方々がいることと思えます。

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  3. こんにちは
    そうなんですよね
    当初ネットで情報が得られず
    余計に知りたいという思いを募らせていたところ
    路爺さんの「写真をお持ち」との記事に触れ信じられない気持ちでした(笑)

    今昔マップに卍マークが付いているのは70年代からの地図で
    明治期は山だけで何も無いように見えますが
    たぶん地図に書き漏れていた?と想像しています
    なぜなら20年前に撮影された鐘楼の建物、、
    昭和以前からあったっポイですよね
    と、いう事は撮影された「手洗い盆」記載の享和でしょうか
    (写真を拡大すると”享保”(1716-に見えてしまうのですが・・)
    今度図書館の郷土史資料などでも情報を求めてみたいと思います

    あと、表情にユーモラスさを感じてしまう(失礼)、
    仏像は韓国のタイプだったんですね
    先日現地(うぐいす台)を訪ねた時、今も現地にありました。

    ところでわたしも路爺さんと同様アラカン爺であります(笑笑)

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  4. 遠藤氏は「仁川村」と書いてますが、旧地名は「鹿塩」です。
    なので「宝塚&鹿塩村&絵図」で検索してみたら西宮のサイトに
    【高精細】鹿塩村・大市庄五ヶ村并蔵人村山境争論裁許絵図なんてのが!!
    https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14754

    寛文9年9月7日作成の絵図で、手洗い盆の年号より200年前になり
    今は弁天池と呼ばれる大池周辺に神社があることが書かれていますが
    法華閣の場所には、何も書かれていませんね・・・
    昔の行政的には、西宮に属するのかもしれませんね?
    ということは古い絵図や資料も西宮の図書館にあるかもですね?

    あと「宝塚市/たからづかデジタルミュージアム」なんてのが公開されており
    鹿塩村の記載は下記にありますが、残念ながら法華閣の記載はありませんね
    https://adeac.jp/takarazuka-city/text-list/d100020/ht201520

    どこかに資料があると思えるんですが・・・
    今のところヒットなし・・・ですね〜???

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  5. 寛文9年の鹿塩付近の絵図。。すごい!
    はじめてみました。
    感じる事が多々あるのですが何より「仁川」という名前が
    こんなに昔(江戸時代の極々初期)にはそう呼ばれていたという事を
    知れてよかったです。
    また弁天池の2ヶ所の切れ込んだ形・・
    他は結構アバウトな図なのに妙に今と同じ形である事にニンマリしてしまいました!
    水周りは圧倒的速さで地形が変わる・・という認識でいましたが
    切れ込みの角度といい相対的なその太さといい殆ど今と変わっていない様に見えます。
    そんなに大きな池ではないですがこの時代の描いた人もこの池に親しんでいたのかも
    しれません、、遠藤周作氏や今の近隣住民同様(笑)
    あと、たしかにこの付近の郷土史は西宮の史料にも範囲を広げる必要ありですね。

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  6. 新しい発見があったら教えてください!
    こちらも新しい事項が見つかったら、こちらにアップしますね。

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